麻酔による子供の死亡事件で、歯科医は裁かれるべきか

医療現場では、予測不可能な事態が起きる。
だから判断ミスをした場合に、刑事事件で裁くことは妥当ではないという意見は根強い。
ヒューマンエラーを100%なくすことはできないし、刑事事件として罪に問われることによって事実が隠蔽され、かえって再発防止策を講じることが難しくなると考えられているからだ。
日常業務の判断ミスが、即刑事罰に問われるとなると、心理的なプレッシャーが大きく、現場が萎縮してしまう可能性もある。

今回の事件で、歯科医院の院長は、業務上過失致死容疑で書類送検された。彼が経営していた小児歯科医院は閉鎖、経済的にも社会的にも制裁を受けている。
現時点の報道では、亡くなった子供の家族に対して歯科医側が謝罪や損害賠償をしたのか、触れていない。

刑事事件となったのは、麻酔薬による副作用に対して、歯科医の判断に過失があったという点だ。ただし、私は隠されたもう一つの論点こそが事件の本質だと考えている。
それは、2歳の子供に麻酔薬を使用して、歯を切削する治療を約1時間かけて行なっていることだ。大人でも耐えがたい辛い治療をしなければならないほど、子供の口腔内は虫歯だらけだったのだろうか。

かつて日本の子供は虫歯が多かったが、歯磨き剤にフッ素が配合されて以降、激減している。
両親は毎日新聞の取材に対して、日常的に歯磨きをしていたと答えているので、そこまで口腔状態が酷いとは考え難い。

小児の治療経験がある歯科医たちに聞くと、乳歯の場合はよほど重度に進行した虫歯でない限り、セルフケアの指導やフッ素を塗布するなどして、再石灰化を促すのが第一選択だという。
たとえ、重度に進行した虫歯があったとしても、1時間もかけて歯を削るのは異例だと口を揃える。

歯科治療の診療報酬は、治療を多く行うほど点数が加算される。つまり、多くの治療をしたほうが歯科医院の経営は潤う。いわゆる「出来高制」が、過剰な治療を誘発する恐れがあると、以前から指摘がされてきた。
亡くなった子供の治療を行なったのは、書類送検された院長とは別の歯科医だ。おそらく、警察は過剰な治療が行われていなかったか、という視点を持ち合わせていなかったのだろう。

「歯科用キシロカイン」の添付文書
「歯科用キシロカイン」の添付文書。警告や注意、副作用など、適正使用する上での重要な情報が書かれている。※クリックで拡大
キシロカイン添付文書
「重大な副作用」には、ショック症状、痙攣等の中毒症状のほか、心停止やアナフィラキシーショック等の記載がある。「小児等への投与」については安全性が確立されていない。※クリックで拡大

麻酔薬リドカイン(商品名キシロカイン)は、歯科治療の現場では日常的に使用されているので、多くの人が経験しているはずだ。
一般的に、患者に投与する前には、過去に反応が出たことがあるか、アレルギーの既往等について確認するが、2歳の子供では、親でも把握しきれていないこともあるかもしれない。

リドカインの添付文書には、重大な副作用として「アナフィラキシーショック」「心停止」などの報告例が記載されているが、これは死亡リスクを意味する。
加えて「小児に対する安全性は確立されていない」という記載もあった。本当は、子供に対する投与は、極めて慎重であるべきだろう。

報道によると、死因は麻酔中毒による低酸素脳症とされている。添付文書にも、中毒症状についての注意喚起があった。
「まれにショックあるいは中毒症状を起こすことがあるので,本剤の投与に際しては,十分な問診により患 者の全身状態を把握するとともに,異常が認められた 場合に直ちに救急処置のとれるよう,常時準備をして おくこと」

つまり、今回の事件は、予測可能な事態だった。異変を訴える両親に対して、歯科医が救急処置をとらなかったのは、患者の命を軽視していた、と批判されても仕方がないだろう。
同時に、利益を得る目的で、幼い子供に過剰な治療が行われていなかったのか、という視点も忘れてはならない。
このような痛ましい事件を繰り返さないためには、歯科業界が自ら検証して情報を公開すべきだが、そうした動きが全く見られないのは残念であり、虚無感すら覚える。