写真家・幡野広志さん

27日(木) 午後8時00分から、写真家・幡野広志さんのドキュメンタリーが、EテレでOAされる。
ハートネットTV 「がんになって分かったこと〜写真家 幡野広志 35歳」

彼はブログ「死ぬかもしれないから、言っておきたいこと」の中で、現在、肺炎を起こして入院中であることを明かしている。
担当医からは、このまま死ぬかもしれない旨を告げられ、心臓マッサージも人工呼吸器も拒否したらしい。
そして、セデーションについて、こう記している。

「苦しんで死ぬというパターンも、助からないのに延命治療で生かされるというパターンも避けられる」

幡野さんは、「セデーション(鎮静死)」と書いているので、セデーションは安楽死と同義と理解しているのだろう。
僕は人それぞれの理解があってもいいと思う。
幡野さんはこうも記している。

「患者が望む死と、家族が望む死は違う」

これを読んで、去年OAされたドキュメンタリー「ありのままの最期」を思い出した。
僧侶で医師の田中雅博さんが、終末期のセデーションを希望しながら、やはり僧侶で医師の妻によって、拒否したはずの延命措置を受けた様子が克明に記録されていた。

セデーションは安楽死なのか、否か。
医師によって、意見は分かれている。

その現場を見てきた者としては、セデーションは安楽死ではなく、痛みや苦しみをとる医療だと思う。
セデーションの目的は死ではなく、あくまで緩和であり、だからこそ致死量を確信して投与するものではないからだ。
ただし、セデーションによって死期が早まる場合もある。
それを理由にセデーションを拒否する家族もいる。
「安楽死はさせたくない」と言って。
このように、患者本人の意志が置き去りにされてしまう場面に立ち会ったこともある。

幡野さんは、こんなことも書いていた。

「“安楽死”という言葉を想像したとき、賛成する人は自分の命に置き換えて、自分だったら苦しみたくないなぁと、必要性を感じて賛成をする。
反対する人は“安楽死”という言葉で、家族や患者の命で想像するから、死なせたくないという気持ちで反対するのだ」

幡野さんが紡ぐありのままの本音を心に刻み、死と向き合う姿を見たいと思う。