緩和ケアで生き抜いた3人の男たちと家族の物語 VOL.2

VOL.2・二千キロの旅に出た家族

「苦しい道と楽な道を選ぶなら、苦しい道を選択して、その様にすれば努力の実は成る」

抗がん剤の副作用で痺れる手にボールペンを握り、何度も書き直したこの一文は、会社を引き継ぐ次男に向けて贈られたメッセージだった。
 松野徹也さんは昭和21年生まれ。30歳の時に機械設計会社を裸一貫で、群馬県高崎市に立ち上げ、業界で信頼される存在に育て上げた。
 6年前、健康診断で、希少がんの一つ、胸腺腫が見つかり、群馬大学付属病院で手術。
3年後、肺に転移が見つかり、抗がん剤治療や重粒子線治療を受けたものの、副作用のしびれ等に苦しみ、身体が思うように動かなくなってしまった。

裸一貫で会社を立ち上げた松野徹也さん。(C)M.IWASAWA

そんな時、松野さんはテレビで免疫細胞療法を知り、東京のクリニックを訪ねた。だが、良いことしか言わず、治療費は法外に高い免疫細胞療法に、会社経営者として不自然さを感じ取った。
  そこで、緩和ケア診療所いっぽ(群馬県高崎市)の外来で、松野さんは竹田果南医師(現院長)に不安と疑問をぶつけた。

「調子はどうですか」(竹田医師)
「良くはないですね、どんどん悪くなっているので。
免疫細胞療法のことで東京に行って、治療費がいくらぐらいかかるかと思って聞いてきましたが、すげえ金額ですよ。結局、金か、命か。弱みにつけこまれていると思うけど。アレが、絶対に効くっていうんだから。
そんな薬、本当はないじゃないかね。
なんで保険で認可しないのか、不思議なんだけどな」(松野さん)

結局、松野さんは東京の免疫クリニックに毎月通って治療を受けたが、全く効果はなかった。

焦りを募らす松野さんには、どうしてもやり遂げたいことがあった。
広島で予定されている業界団体の会合で、取引先や業界関係者に、自ら会社を引き継ぐ次男を紹介したかったのだ。
ただし、高崎と広島は往復2千キロ。あまりに遠い。
酸素ボンベを携行して、やっと呼吸を維持している状態だったので、途中で急変する可能性もある。
松野さんは、妻と次男と三人で、いっぽの竹田医師を訪ねて、この無謀な旅を相談した。

竹田果南医師は、できることではなく、患者がやりたいと願うことの背中を押す。命綱の酸素ボンベを携え、松野さん家族は旅に出た。(C)M.IWASAWA

「ご自分がやりたいと思う事を、ぜひやって下さい。私たちが全員で支えます」
竹田医師は、いつもの静かで優しい笑顔で答えた。

そして、松野さんと妻、次男の3人は、車に酸素ボンベを積み込んで往復2千キロの旅に出た。
道中は、まるでロードムービーのような出来事の連続だった。
松野さんは、酸素ボンベで片肺のみの呼吸だったし、身の置き所がない、がん特有の疼痛や、強い痺れなども抱えていた。
かなり辛い状態が続いていたが、それでも亡くなる前日まで、普段通り家族と食事をして、夜だけベッドに入って横になった。
それは、本人の意思を家族が最大限に尊重した結果、松野さんの心がとても穏やかで満たされた状態にあったからではないだろうか。

緩和ケア診療所いっぽ・福田元子師長
がんを抱えながら生き抜く患者に寄り添ってきた福田看護師長は、「人は生きてきたように亡くなっていく」と教えてくれた。(C)M.IWASAWA

無謀とも言える往復2千キロの旅、最期に起きた心温まる不思議な瞬間など、ドラマチックな記憶を家族に残して、松野さんは旅立った。
同じがん患者であっても、悲壮感溢れた最期もあれば、感謝と幸福な記憶を残して逝く人もいる。
いっぽの福田元子・看護師長はこう教えてくれた。

「人は生きてきたように、死んでいくんです。
命の終わりに、その人がどんな風に生きてきたのか分かります」