緩和ケアで生き抜いた3人の男たちと家族の物語VOL.3

VOL.3 最後まで仕事を続けるという選択

平野さんと萬田医師
萬田緑平医師の診察室には笑い声が響き渡る(C)M.IWASAWA

<出会い>  
2014年9月、緩和ケア診療所いっぽの密着取材を開始した初日に出会ったのが、平野治行さんだった。
73歳にして現役の設計士。ほがらかな笑い声、強い光を放つ眼、才知溢れる会話。大腸がんステージ4を抱えている患者とは、思えないほど活力がみなぎっていた。
その奥深い人間性に惹かれ、16回にわたって、仕事現場から、自宅で最後の時を過ごすまで、お付き合いさせていただくことになる。  

<がん治療>  
平野さんの大腸がんが見つかったのは、2013年の12月。
〝便が細くなった〟〝時々血が混じる〟〝便秘と下痢が交互に起きる〟等、大腸がんの特徴に当てはまる症状が続き、病院で検査を受けた。
大きな大腸がんが、腸閉塞を起こしていると分かり、緊急手術。その結果、肺と肝臓にも転移が見つかった。
担当医からは、術後の化学療法(抗がん剤治療)を提示されたが、平野さんは、やりかけた仕事を精一杯したいと考えて、緩和ケアのみを選択。以降、毎月いっぽの外来に通うことになる。

緩和ケアを受けながら仕事を続ける平野治行さん
抗がん剤治療はせず、緩和ケアを受けながら仕事を続ける平野治行さん(C)M.IWASAWA

<仕事人生>
平野さんは、大手鉄鋼会社に設計士として勤務。
海外のプラント建設などに関わり、幾つもの特許を取得した、業界では知る人ぞ知る存在。

取材当時は、高崎市に本社を置く、株式会社チャスコンと顧問契約をして、設計士として働いてた。
現在の設計図はCADで行うのが主流だが、平野さんは昔ながらの手書きを貫く。
ただし、病状が進行して64キロあった体重は、50キロに減少。
握力も大きく低下して、以前使用してた〝3H〟の硬い鉛筆の芯は〝B〟に。ペットボトルのキャップを開けるのも苦労するようになっていた。

「抗がん剤治療をやっていたら、仕事に影響したのか、どうかは分からない。神のみぞ知る、そういう領域なのかなという気がしてます。僕は自然体でいたい。ただそれだけです」

がん性疼痛を抑えるため、オプソを飲む
時間も場所も選ばず襲ってくる痛みを抑えるため、仕事中でもオプソを飲む。(C)M.IWASAWA

<モルヒネをめぐる誤解>
がん患者が直面する悩みの一つが、「疼痛」と呼ばれる身の置き場のない痛み。 平野さんも仕事中に度々、疼痛が起きていた。そんな時、引き出しから、スティックタイプの薬を取り出して口にする。〝オプソ〟という、医療用麻薬のモルヒネ剤だ。

「うーん、不味いなあ。水で流し込むんですよ。30分くらい経つと、すーっと効いてくるんです」

モルヒネは、麻薬中毒者のイメージがいまだに強く、怖がって使用を拒否するがん患者は少なくない。
だが、医療用のモルヒネ剤で、中毒になることはないという。また、疼痛にモルヒネを早期から使用することで、副作用を抑える効果もある。平野さんは、理系技術者らしく、理詰めでモルヒネの効果を納得した上で、仕事中にモルヒネの服用をしていたのだ。

<体力の低下>
2014年12月、平野さんの体重がさらに落ちて、ズボンがぶかぶかになっていた。勤務先の事務所がある2階には、14段の階段を自分の足で登らなければならない。
若い頃にハードな冬山登山で鍛えて、人並み以上の体力が自慢だった平野さんだが、今では14段の階段が毎日の修行のようになっていた。

「がんは確実に進行していますよ。時々痛みが襲ってくるし。でも、それを言って誰も喜ぶ人はいないから黙ってるだけ。特に女房にはね。あっちが痛い、こっちが痛いとかさ。コレが、がんなんだ!こんにちは!ってね、はははは。何しろ初体験だからね、せいぜい、うまく付き合うさ」

  <がんと栄養>
2015年2月、平野さんが4日間で食べたのはヨーグルト2つのみ。でも変わらず元気で、仕事の意欲は強い。
患者が食事を摂れなくなると、病院などでは点滴や、中心静脈栄養などでの栄養補給が検討されることが多いが、緩和ケア診療所いっぽでは、これに否定的だ。

「食べなきゃ死んじゃう、と思っている人が多いですけど、がん患者の場合は、無理に食べずに痩せて枯れるような状態になったほうが元気ですし、最後まで歩けます。逆に、点滴などで無理に栄養補給すると、後で身悶えするような苦しみを患者が味わうことになります」(萬田緑平医師)

自分の身体に起こる変化を、茶目っ気たっぷりに記録した。厳しい状況でも、ユーモアを忘れない人だった。(C)M.IWASAWA

<ユーモア>  
2015年5月、平野さんはアメリカに住む二人の妹に、ユーモアたっぷりの自画像と、太腿や上腕の測定値(外周)のイラストを書いて、メールで送っていた。測定値は太腿33センチ、上腕19センチ。体重は43キロ。
「これを見た妹たちが、大笑いしてたよ。お兄ちゃん、すごいねって」  

<最期の日々>
2015年7月、居間のソファに横になっていた平野さんは、妻の手を借りて上体を起こした。この動作だけで、息が荒くなる。
「ウチで(設計図を)書いたんだよ。なんとか仕上げたいけど、こんな設計図は見たくない!となったら本当に最後だな。見て、この足!骸骨だもん。
まさか、女房に抱きかかえられるとは思わなかったね」
そして夫婦の間で交わされた言葉を教えてくれた。

「昨日の夜、いっぱい働いてくれて、ありがとうって言われたんでさ。
 何気なくさ、涙出てきちゃうよ」
「だって、こんなになっても仕事をやってるでしょう。本当になんかね…」(妻)

2015年8月の夜明け、平野さんは自宅で静かに息を引き取った。
深刻ながんでさえ、いつも笑い飛ばしていた平野さんを思い返すと、アランの「幸福論」にある一節が浮かぶ。  

「幸せだから笑っているのではない。むしろ僕は笑うから幸せなのだ」  

今回、週刊ポストでお伝えした3人が教えてくれたのは、それぞれの患者の生き方に合った「がん治療の選択」があること。そして「限りある命と向き合う」ことの大切さだ。

次は、映像作品としてまとめる作業が待っているが、まずはこの場を借りて、取材にご協力して下さった、患者、家族、関係者の皆様に心から感謝を申し上げます。