6号線を走る

汚染度を詰めたフレコンバッグの山。
汚染度を詰めたフレコンバッグの山。(C)M.IWASAWA
福島の海側を南北に貫いている国道6号線は、あの日からずっと閉鎖されていたが、現在では検問所はなくなり、通行許可証は必要なくなった。
30日、この6号線を南相馬から、いわきまで走ってみた。
除染によって出た「汚染土」を詰めたフレコンバッグが、至る所に積み上げられている。
南相馬では、津波で破壊された家屋の大半が撤去されて整地されていたが、人の気配がない土地は荒野そのものだ。
大熊町の付近を走行中に、放射線量は「4マイクロシーベルト」を超えた。
東京電力・福島第一原発に最も近い場所である。(原発事故前の福島県は「0.05マイクロシーベルト」程度)
原発事故の復旧作業が始まると、現場作業員が怪我や体調悪化で、6号線を経由して救急搬送されるようになった。
それを最前線で対応してきたのが、広野町にある高野病院の老医師だった。
100人を超える入院患者を抱えながら、救急医療を行うのは、想像を絶するほど過酷だったはずだ。
もし、老医師が対応していなければ、いわき市にある共立病院・救命救急センターに患者が集中してパンクしていた可能性もある。
この地域の医療者たちは、それぞれの使命感で命を守り続けているのだ。
30日夜、一人暮らしだった老医師の自宅が火災となり、彼は遺体で発見された。
80歳を超えるまで現場に立ち続けた、高野英男さんのご冥福を心からお祈りします。